実在のマリア・アルトマン

実在のマリア・アルトマン

結婚式写真1916年、マリア・アルトマンはウィーンに生まれる。マリアの母とアデーレ・バウアーは姉妹で、ブロッホ家のフェルディナントとグスタフの兄弟とそれぞれ結婚していた。彼らはブロッホ=バウアーと名乗り、エリザベート通りに佇む宮殿風のアパートで一緒に暮らす。
フェルディナントとアデーレの夫妻は非常に裕福で、芸術家のパトロンとしても知られており、2人のサロンには、画家のクリムトや作曲家のマーラー、作家のシュニッツラー、精神科医のフロイトなど名だたる顔ぶれが通っていた。アデーレは1925年に髄膜炎で亡くなるが、クリムトは生前の彼女をモデルに肖像画を2枚残している。(「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ」)

マリアは21歳でオペラ歌手のフリッツ・アルトマンと結婚。1938年3月13日、ヒトラー率いるナチスがオーストリアを占領する。フリッツがダッハウ強制収容所に一時的に拘束された後、彼とマリアは亡命を実行、スイスを経由してイギリスからアメリカへと辿り着く。
マリアの父親はウィーンに残ったがすぐに亡くなり、財産はナチスに没収される。マリアに譲られたアデーレのネックレスも、ドイツの政治家ゲーリングの妻の首を飾った。1943年、ナチスの指揮下でクリムトの絵が展示された時、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 」には、「Lady in Gold」という別名が付けられた。
マリアとフリッツはカリフォルニアで4人の子供を育てる。1998年、マリアは家族ぐるみの友人の息子である弁護士ランディ・シェーンベルクに、オーストリア政府に対して伯母の肖像画を始めとする絵画の返還を求めたいと頼む。訴えを却下されたマリアとランディは、「米国民は国内において他国政府に対し訴訟を起こす権利を有す」という法律を利用して戦いを起こす。
数年かけて全ての裁判で勝訴し、最高裁でもマリアに有利な判決が下されると、オーストリアはオーストリア人裁判官3名で構成された仲裁委員会で示談に応じることに合意。2006年1月17日、マリアへの返還が決定する。5枚の絵画はロサンゼルスに展示された後オークションにかけられるなどし、個人の収集家たちに売却された。「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」も、マリアの「誰もが鑑賞できるよう、常時展示すること」を条件に、コスメ界の大物ロナルド・ローダーに1億3500万ドルで買い取られ、ニューヨークのノイエ・ギャラリーに現在も展示されている。
2011年、マリアは94歳で永眠した。
マリアと共に戦ったランディは、勝訴して以降、美術返還の弁護を多く引き受け、それを専門とする会社を設立した。さらに、ロサンゼルスにホロコースト博物館を設立するために動くなど、過去の大切な記憶を引き継いでいくために熱心に活動している。

マリアの驚きの人生を映画化せずにはいられなかった製作陣

マリアの驚きの人生を映画化せずにはいられなかった製作陣

写真BBCのドキュメンタリーでマリア・アルトマンを知り、心を深く動かされたサイモン・カーティス監督は、BBCフィルムズのトップであるクリスティン・ランガンに映画化を提案する。ランガンはBBCフィルムズの創設者であるデヴィッド・M・トンプソンにプロデュースを、劇作家アレクシ・ケイ・キャンベルに脚本を依頼する。
脚本の段階から、実際に弁護士を務めたランディ・シェーンベルク本人の協力が得られた。キャンベルはランディから複雑な法的権利について聞いた時のことを振り返って笑う。「『私を6歳の少年だと、それもあまり賢くない6歳だと思って分かりやすく説明して欲しい』と頼んだよ。」

キャンベルは記録書類や目撃談、さらに関係者へのインタビューによって、マリアの魅力的な人生を知っていく。彼はマリアと家族の逃亡の話は、それだけで1本の映画が撮れるほどだったと指摘する。「マリアの兄は、スキー事故からヒトラーの甥を救ったことがあった。足を骨折した甥を担いで山から降りたんだ。それから2年後、甥は彼を本部に呼び出し、国外退去するための書類を渡してくれたそうだ。」
出来上がった脚本は、キャンベルにとって映画デビュー作だったが、ダイナミックな展開とユーモアに満ちた会話で読む者を圧倒した。彼の脚本を読んだ全ての人が、もうマリア本人に会えないことを残念がった。「マリアがランディの協力を得て成し遂げたことを描いたこの話は、人々の心に訴えるものだと感じた。失うことを経験した人ならきっと共感できると思う。」とトンプソンは語る。

深刻な戦いに明るさとユーモアをもって挑んだキャストたち

深刻な戦いに明るさとユーモアをもって挑んだキャストたち

写真不屈の精神を持ち、元気で頑固なマリア役は、カーティス監督にとってヘレン・ミレンが第1候補で唯一無二の選択肢だった。「彼女はマリアのユーモアも怒りも両方持ち合わせていた。彼女を獲得できたのはとても幸運だったね。」プロデューサーのトンプソンも補足する。「器用でデリケートで、面白くてふてぶてしい、そんなマリアのキャラクターに適した素質を全て持っていた。因襲打破の精神も含めてね。」

ミレンはマリアの供述録を読む他に、ユダヤ人迫害について可能な限りの書物を読んだと言う。「マリアについて知れば知るほど、彼女を好きになったわ。素晴らしいユーモアの持ち主で、気品があっておおらか、そしてとてもパワフルな女性よ。」
ミレンは、マリアの内に秘めた怒りを表現することにも懸命だった。壊された家族の幸せや奪われた人生に対する怒りだ。「何もない状況で新しい国にやって来て、身一つで人生を築き上げるなんて勇敢だわ」とミレンは説明する。「移民の息子である私の父親にも共通するものがあるわ。父はロシアで生まれ、裕福な暮らしから一転、過去の生活を忘れて生きなくてはならなかったの。」
プロデューサーのハーヴェイ・ワインシュタインが、ランディ役にライアン・レイノルズを推薦する。「ライアンはこの役に必要な知性とユーモア、そして明るさを備えていた」とトンプソンは説明する。 レイノルズは「ストーリーは素晴らしいし、名女優ヘレン・ミレンと数ヶ月過ごせる特権をもらえたことに感謝した」と語る。レイノルズとランディ本人は撮影中に偶然会うことになったが、レイノルズは当初から彼を模写することは避けようと決めていた。「僕は自分のランディ像を作り上げたかった」とレイノルズは言う。「結局、彼に会ったらすぐに意気投合したけれどね。」
マリアを助けるオーストリア人ジャーナリスト、フベルトゥス・チェルニン役は、著名なドイツ人俳優ダニエル・ブリュールに決まった。ユダヤ人迫害問題はブリュールにとっても非常に重要だった。「人生の大半をドイツで過ごしたから、その問題は常に興味深いものだった。なぜそのようなことが起きたのか?一般市民はどこまで知っていたのか?具体的に何が起きていたのか? 僕らの世代は今でも罪悪感と向き合っている。だからこそ、この役に深く共感できたんだ。」
その他、マリアやフリッツの若い頃を演じたタチアナ・マズラニーやマックス・アイアンズ、シェーンベルクの妻を演じたケイティ・ホームズ、さらにフランシス・フィッシャーやチャールズ・ダンス、ジョナサン・プライス、実生活では監督の妻でもあるエリザベス・マクガヴァンなど素晴らしい俳優たちがキャスティングされ、要所に登場する仕掛けも見逃せない。

ウィーンで再現された上流社会の暮らしとナチスの侵攻

ウィーンで再現された上流社会の暮らしとナチスの侵攻

写真撮影は2014年5月から8週間かけて、ロンドン、ロサンゼルス、ウィーンで行われた。作品に関わった者全ての共通認識として、ウィーンでの撮影は特別な意味を持っていた。特にブロッホ=バウアーのアパートの描写は、映画の核心を表現する重要なものだった。不運にも当のビルはその時リノベーション中で、足場で隠れてしまっていたが、似たような外観のビルを近くで見つけた。内装の撮影には、ウィーンにあるアウエルスペルク宮殿が使われた。壮麗な上流社会の応接室に、ブロッホ=バウアーが所有していた美術品のレプリカが飾られた。ここで開かれたマリアとフリッツの結婚式で、ユダヤ人が一番下の子の結婚式で披露する伝統的なダンス、メジンケ(Mezinke)が踊られる。「マリアの結婚式は、ナチが到着する前に行われた最後のユダヤ人の社交行事だったから、一つの時代の終焉を描く意味で、このシーンが必要だった」と監督は語る。

さらにカーティス監督は正確なリサーチを重ねて、ウィーンの群衆が歓待した、ナチスのオーストリア併合の際の侵攻を再現した。ウィーン市庁舎から、ナチスの象徴である赤い卍の旗を垂らす許可を得て、細部まで徹底的にこだわった。監督は、ウィーン市民が撮影にあたって温かく歓迎してくれたことに感謝する。「僕たちはこの国の最大のトラウマを再現しようとしていた。ナーバスな問題なのに、ウィーンの人々はとても協力的だった。」
ミレンもウィーン市長から、市庁舎の上に佇む兵士の彫像“Freedom of the City”の小さな金のレプリカを贈られた。「それは私ではなく、マリアへの贈り物だと思うわ。過去と向き合わせてくれたマリアは、ウィーン市の歴史にとって、非常に重要な存在だったのよ。」
最後にミレンがまとめる。「マリアが劇中で言うように、“人間は忘れてしまう”の。これはそういった意味でも素晴らしい作品よ。重要な話を次の世代へ伝え続けることができるものだから。」